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【考察・解釈】スピッツ『ナイフ』(詩と絡めた解釈とともに)

この曲は、『オーロラになれなかった人のために』に収録されています。

ナイフ

ナイフ

  • provided courtesy of iTunes

 

 

私はよく、この曲を「睡眠導入剤」代わりに聴きます笑。なぜなら、ベースの重く低い音が心地よく、もやもやとした霧がかかったようなイントロが1分以上続き、そのうえ、マサムネさんの力の抜けた優しく伸びやかな声が広がるために、曲のふわふわとした世界観に包まれるような感じがして、大変心地よく感じられるからです。

 

どんなに眠れないときも、『ナイフ』を聴くと、だんだんと、うとうとしてきます・・・というか、この『オーロラになれなかった人のために』というアルバムそのものが、私にとっては「睡眠導入剤」となっています(『海ねこ』は、このアルバムのなかでは賑やかなほうの曲ですが、入りかけた睡眠の妨げになることはありません!不思議です)。

 

もし、「なかなか眠りにつけない!」というときがありましたら、是非『オーロラになれなかった人のために』を聴いてみてください。

 

 

歌詞の意味を考えてみる

この曲は、一般に、スピッツの曲の中の“エロい曲、あるいは、”怖い曲“として有名かと思います。実際に私も、まだスピッツ沼にはまる前にこの『ナイフ』の歌詞やその解釈を読んでみて、「これは・・・!」と非常に驚いたのを覚えています。

 

 

ナイフ=男性器として捉える解釈が有力(!?)かと思いますが、とすると、かなり変態的に欲望を歌った曲に聞こえると思います。一応、別の解釈として、仮にナイフ=(そのまま)ナイフとして捉えるとか、ナイフ=相手を傷つけてしまいそうなほどにわがままな、自分の欲望として捉えることも考えてみたのですが、やはり通説である“ナイフ=男性器”説が、全体として、一番しっくりくる解釈だなと思います。したがって、ここでは、その通説にたって、歌詞の意味を考えてみたいと思います。

 

 

 

君は小さくて 悲しいほど無防備で

無知でのんきで 優しいけど嘘つきで

「君」について、さすがに蔑みすぎじゃないか・・・!?と思うほどに、「褒め言葉」が少ないですよね。ただ、この表現から、「君」は、か弱くて、ぽや~っとした子なんだろうなと思います。たまに漫画に出てくるような、「本能的に守りたくなるような不思議ちゃん系キャラ」を想像しました。

 

 

「優しいけど嘘つきで」というフレーズが、なんだか引っかかりますよね。私が勝手に想像したのは、「君」はとても優しいからなんでも「いいよー」と言ってはくれるけれども、「僕」が「君」に依頼し、「君」が承認してくれた欲望がすべて実現しているわけではない、ということです。だからこそ、「え、この前は良いって言ったじゃん!」みたいなことになることが多く、しかも、「僕」にとって特に実現したい欲望こそ実現されないから、イライラが募って、「優しいけど嘘つきで」なんて言ってしまうのかなと思いました。考えすぎですかね!?

 

 

 

もうすぐだね 3月の君のバースデイには

ハンティングナイフのごついやつをあげる 待ってて

誕生日プレゼントにハンティングナイフ(そのもの)をもらってうれしい人は、なかなかいないですよね(狩猟を趣味としているならばわかりますが)・・・となると、やはり、“君の誕生日に「僕」のそれをプレゼントするね!(エロいことをしよう!)”と言っているのでしょうね。

 

 

それをあげるよ、まっててね、という言い方が、優しくもどこか変態的な感じがします。この感情はなんとも表現しがたいのですが・・・「ナイフ」という凶器を、(一方的に?)あげるよ、というのがなんとも・・・変態的に感じられます。「ナイフ」は尖っていて、人を切り裂いたりする能力のある危険物です(ましてや、ハンティングナイフです)。それよって「君」は「傷つく」かもしれないわけですし、そのことを「君」もわかっていると思うのです。そんな状態での、「まってて」ですから・・・とても危険な感じですね。

こういう観点から考えると、この「ナイフ」は、男性器という比喩を超えて、「相手を(身体的に?精神的に?)傷つけるかもしれない鋭く尖った“願望”ということなのかもしれません。

 

 

 

私が個人的に気になっているのは、「3月の君のバースデイ」という表現です。なぜ「3月」なんでしょうね。私が勝手に想像したのは、まず、「君」と、例えば「君」が○歳になるまでは、エロいことをするのを禁止!みたいな約束をしていて、そして、その年の3月に「君」が○歳になるから、ついにエロいことが解禁される・・・!!みたいな状態にあるという前提です。だからこそ、「僕」は、「どうして『君』の誕生日は、3月(=年度末、日本では、もっとも“遅い“誕生月)なんだ・・・!もっと早ければ!」という葛藤と、「あれだけ心待ちにしていた3月が来る!」という高揚感を感じているのではないかと思うのです。さすがに考えすぎかもしれませんが、「3月」ですからね・・・「8月」とか「12月」とかではないんです。日本社会特有の“4月はじまり3月おわり”という暦を意識すると、「3月」という月から、どれほど「僕」がその日を待ち望んだのかということを強く感じてしまいます。

 

 

他方で、「3月」ですから、“卒業“というニュアンスもあるかもしれません。この曲の途中で、「血まみれの夢許されて」という歌詞が出てきますが、このことから、「君」は処女なのかなぁと想像します。だから、「君のバースデイ」に、そういったエロいことをするとすれば、それは「君」にとって処女を“卒業”するということだ、という意味も感じられるかもしれません。

 

 

 

 

君がこのナイフを握りしめるイメージを

毎日毎日浮かべながらすごしてるよ

言わずもがなですが、毎日(「君のバースデイ」まで)、「僕」は自分の「ナイフ」を「君」に「握りしめ」てもらうことを考えながら、触っているんだろうと思います。「この」と言っている以上、やはり「僕」の手元に近いところにあるもの、すなわち、自分のそれなんだろうなと思います。

 

 

 

目を閉じて不完全な部屋に帰るよ

いつになっても 晴れそうにない霧の中で

個人的には、この歌詞が一番好きです。

 

私は、「僕」は自分の「ナイフ」と「君」への妄想をし、一息ついた後、自分の理想とする世界にトリップしようとしているのかなと考えています。自分の理想とする世界というと、例えば、「君」と2人きりで過ごす「部屋」とか、「君」と暮らす「部屋」とか、そういったものです。そのようにして、「君」を閉じ込めておきたい場所を、思い浮かべているんだろうと思います。

 

 

そして、この場合、なぜ「不完全」なのかというと、そのような「部屋」は、自分が目を閉じて思い浮かべたときにしか現れず、目を開けば、それはすぐに消えてしまう幻のようなものだからかなと考えています。また、自分のそのときの感情や気力などの心理的なものによって、想像されるものが左右される(だろう)からでもあるのかなと思います。

 

 

となると、「霧」というのも、自分の心のもやもやとか不安とか焦りとか、そういった「負」の感情が象徴されているような気がします。1番の歌詞とは打って変わって、ここの部分では、「僕」の不安定さ・暗さが全面に押し出されているなともいます。

 

 

この部分(Bメロ?)は、1番においてもそうですが、ベースがとても効いていてすごく心地よく聞こえます。また、2番においては、「帰るよ」の“る”と“よ”が、マサムネさんのどこか心許ない声で歌われ、また、それがベースの重苦しい音に乗っかって、独特の雰囲気を醸し出しているなと思います。個人的には、それが、「僕」にとっての不本意な感情を表現しているような感じがします。というのは、「僕」は自ら好き好んで「不完全な部屋」に帰っているわけではなさそう、ということです。それは、現実にすぐに理想的な(=完全な)部屋が実現されないからなのか、「僕」がそこに戻らないといけないとされているからなのか(なぜ?)、理由はわかりません。

 

 

 

果てしないサバンナを行く しなやかで強い足で

夕暮れのサバンナを行く ふり向かず目を光らせて

この部分、マサムネさんのしっとりとした、音と音がつながるような歌い方のおかげなのか、なにかの動物(例えば、シマウマ)が、しなやかな足取りで、それでも、地面をしっかりと蹴って前に進もうとする「強い足」で走っている様子が思い浮かびます。

 

 

サバンナというと、どこか強そうな大きな動物がたくさん住んでいる印象があります。「僕」自身も、そのような“動物”として、広大な「サバンナ」を他のものに目もくれず、ただ“獲物“としての(?)「君」に向かって着々と進んでいる、ということなのかもしれません。

 

なぜ「サバンナ」なのか?ということもまた疑問です。一応考えてみたのですが、「僕」は、砂漠という「虚無」のなかで、わずかに生い茂った草木という「かすかな・ちょっとした希望」を心の支えにして、なんとか頑張って着実に日々進んでいる、ということを表現しようとしているのかなぁという気もしました・・・が、そもそも「砂漠=虚無」として捉えること自体、どうなんでしょうか・・・。

 

(くだらない話ですが、この部分、何度読み返してみても、いいちこというお酒のCMのワンシーンが浮かんできます・・・笑。お酒は飲めないんですけどね・・・苦笑)

 

 

 

血まみれの夢許されて心が乾かないうちに

サルからヒトへ枝分かれしてここにいる僕らは

前半部分は、「血まみれの夢」とは処女である「君」とエロいことをすることであり、その願望が実現する(あるいは、これからするということが確定した)とわかって間もないうちに・・・といったふうに捉えました。そして、後半部分は、(突然冷静になったのか?)なぜか人類の歴史を考えている、と。しかし、これでは意味不明ですよね。記事の後半に、詩と絡めてみた、他の解釈を考えて展開してみました。もしよろしければ、こちらもお読みいただけるとうれしいです。

 

 

 

 

蜜柑色の満月が膨らむ午後6時に

シルバーのビートルを見かけたんだ20号で

今度こそ何かいいことがきっとあるだろう

いつになっても 晴れそうにない霧の中で

一番解釈できなかった部分です。

「蜜柑色の満月」が見られるような日(=非常に珍しいとき)に、珍しい車を見かけたんだ、だから、それが幸運の前触れであるような気がする、ということかなぁ・・・くらいしか考えられませんでした。

ところで、「シルバーのビートル」は、そんなに珍しいものなのでしょうか。さらにいえば、「20号」であることの意味合いは何でしょうか(国道20号??)・・・考えれば考えるほど、この部分は謎が深いです。

 

 

 

「いつになっても晴れそうにない霧の中で」と歌った直後に、突如として、気持ちがだんだんわくわくと盛り上がってくるような、明るい雰囲気の間奏が入ります。だからなのか、この部分での「いつになっても・・・」は、先ほどのただただ「暗さ」が続いていくこと、あるいはそれを強調することとは少し変わって、これからのやってくるであろう「明るさ」や「いいこと」によって終わりを迎えるような予感を感じさせます。今はまだ霧の中だけど、それも終わりが見えている、そんな感じでしょうか。だからこそ、その後に明るい間奏が続くのかなと思います。

 

 

そして、この間奏を終えると、再びイントロと同様の、どこかもやもやとした雰囲気の音がやってきます。しかし、曲の冒頭とは異なり、先ほどの明るい間奏を経たからか、そんなに重苦しくない感じがします。さらに、その後には再び一番の冒頭の歌詞「君は小さくて・・・」と歌われるわけですが、こちらも同様に、一番の時のように変態的な感じとは少し異なり、ただ楽しみにしていてね(こちらも楽しみにしているよ)という明るい感じがします。それは、曲が最後、メルヘンチックに終わることも影響しているのかもしれませんね。(ウィンドチャイム?の音が本当にきれいなんですよね。闇や霧を切り裂いてくれるような感じがします。)

 

 

 

(余談)リルケの詩と絡めて考えてみる

先ほど「後ほど別解釈を展開してみます」として挙げた、

血まみれの夢許されて心が乾かないうちに

サルからヒトへ枝分かれしてここにいる僕らは

この部分について考えてみようと思います。

 

 

※ここからは、超個人的な思い出話と、超勝手な解釈が続きます。

 

私が大学生のころ(唐突な自分語りですみません・・・)、憧れていた方から、ある本を頂戴しました。それは、リルケ(訳 手塚富雄さん)の『ドゥイノの悲歌〔改版〕』(岩波文庫、2010年)でした。私は、文系学部に所属しているとはいえ、文学を専攻していたわけでもなければ、詩というものをまともに読んだこともありませんでした。これまでに読んだことのある詩といえば、小学生の時に授業で扱った、かまきりりゅうじさんの「おれはかまきり」くらいしか覚えていません。

 

 

なぜその方が私にその本をくださったのかはわかりません。しかし、私のために選んでくれた本だということはわかって、そのことがうれしかったので(当時、その方のことが好きだったから、余計に嬉しかったんですよね)、まずはわからないなりに読んでみることにしました。しかし、難解すぎる・・・。訳者さんのあとがきにあるように、まずは詩だけを読んでみることにしたものの、ますますわからない、かといって、注解と照らし合わせながら読んでみても、少し意味がとれない。贈主に詩の意味内容を聞いてみるとかすればよかったのでしょうけど、私は強がったのか、それをしなかったんです。そして、そうこうしているうちに、その方とは疎遠になってしまいました。疎遠になってからは、頂いた本を見るとつらくなるので、本棚の奥にしまいこんでいました。

 

 

それから数年経ったこの前、ふと「また読んでみようかな」と思えたので、もう一度、『ドゥイノの悲歌』の読解にチャレンジしてみました。すると、数年前よりも、内容が身にしみてくるし、そこに書かれている言葉や感情が、自分のなかにもあるということに気づかされたのです。年をとったということなんでしょうか笑

そして、ある部分を読んでいるうちに、「これ、スピッツの『ナイフ』のあそこの意味に近くない・・・?」と思えてきたのです。

 

 

※なお、『ドゥイノの悲歌』については、Wikiをご覧ください(私には難しくて、とうていそれを説明することはできません!)

ja.wikipedia.org

 

 

・・・・・・

 

 

前置きが長くなってしまい申し訳ございません

そういうわけで、リルケの『ドゥイノの悲歌』の第三の悲歌を取り上げてみたいと思います。

第三の悲歌では、訳者さんによると、

前悲歌で、はげしい言葉で、愛の名において行われる異様なむなしさを言ったのに触発されて、実はそのことの根源をなしている性本能の由来の深さとその力のすさまじさを展開したのである。これも人間実存の一態で、人間はこの宿命の河流のなかに、逃れがたく巻きこまれているのである。(121ー122頁)

とのことです。

 

 

まず、詩のある一部分を取り上げてみようと思います。

見よ、われわれは野の花のように、たった一年(ひととせ)のいのちから

愛するのではない、われわれが愛するときわれわれの肢体には

記憶もとどかぬ太古からの樹液がみなぎりのぼるのだ。おお乙女よ、

このことなのだ、愛しあうわたしたちがたがいのうちに愛したのは、ただ一つの沸騰ちかえる(わきたちかえる)無数のものであったのだ。(66-70行目)

※ここでの「愛する」というのは、「存在する」ということと同じ意味だそうです。(注解:120頁)

※実際には、傍点がふってある部分を、太字にすることで表しています。

 

 

 

この部分について、私は、"私たちがお互いを愛し合うとき、お互いから、その者自身が有する人類の長い歴史(両親がいて、祖父母がいて、曾祖父母がいて・・・)を見いだしていて、それを愛しているのだ”ということを言いたいのかなと思いました。

確かに、今ここに生きている私たちは、人類の(それこそ、サヘラントロプス・チャデンシスから続く)長い歴史を背負っているわけです。決して、突如、この地球上に現れたような存在ではないわけです。

 

 

 

この第三の悲歌のなかでは、ほかにも、先ほどの部分に続いて、

そしておんみも、みずからは知らぬまにー、おんみを愛する若者の内部に、

太古をいざない掘り起こしたのだ。(76-77行目)

といったことがうたわれています。

先ほどと同意義のことを言っていると思います。

 

 

 

重複する部分がありますが、私なりにもう一度まとめると、、私たちは、恋人や好きな人、愛する人に対して、その人が有する遙かなる「人類の歴史」を見ていて、それをもひっくるめて愛しているということかなぁと思います。

(そして、愛するという行為よりも前に、そのような「人類の歴史」を見いだしているようです。74-75行目では、「このことが、乙女よ、おんみへの愛の前にあったのだ。」とあるからです。)

 

 

 

また、第三の悲歌のうち、(逆戻りしてしまいますが)冒頭で、

血の河神(2行目)

という存在が出てきます。

これは、訳者さんによると、

性の象徴。世代から世代へ流れつづける血を支配する根源的な威力である。(117頁)

ということです。血という意味から一般に連想しがちな”血統”とか”血筋”とか、そういうものも含まれるのでしょうか。また、訳者さんの仰る「性」とは、性別とかうまれつきの性質といったものを越えて、子孫を残すという文脈で出てくる概念なのかなぁと思っています。

 

 

・・・・・・

 

 

それでは、このリルケの詩とスピッツの『ナイフ』の当該箇所がどう重なるのか、ということは、ここまで読んでくださった方ならもうおわかりいただけるはずです。

 

 

まず、

血まみれの夢許されて心が乾かないうちに

この部分での「血」は、「血の河神」における「血」と同様に、性そのものを表しているのかなとも思います。

そのうえで、少し飛躍しているかもしれませんが、「僕」と「君」との子孫を残し、次の世代を生み出す行為を「血まみれ」と言っているのかなと思いました。血と血が混じるということからも、「血まみれ」と表現しているのかもしれませんね。

 

 

なぜ「・・・夢許されて心が乾かないうちに」なのかは、難しいですね。

この部分は、先ほどの詩と関連させて考えるよりかは、言葉をそのまま捉えるほうが良いと思います。すなわち、人間は大人になるまで、基本的には(だいたいの場合)、本能であるにもかかわらず、そういった行為をすることを禁じられていて、だからこそ、そういった行為は人間にとって「夢」なのかなと思います。また、「僕」が「君」とそういうことができるまでずっと待っているということからも、それは「夢」なのでしょう。

 

その「夢」を実現することが(何者によってなのかは分かりませんが・・・「君」でしょうか?)許されたのだから、「僕」は、早くしたいなぁと待ちわびているのかなと思います。

 

 

次に、

サルからヒトへ枝分かれしてここにいる僕らは

この部分こそ、私が先ほど引用した詩と同じ意味なのではないかと思います。

「僕」は、「君」のことを想うと同時に、「君」を起点にして先祖を遡ることによって、「君」を通じて人類の歴史を見ているのではないかと思うのです。「あるとき」を境に、「ヒト」と「サル」は別の発達を遂げるようになるわけですが、その分岐点を丁寧にもたどって、人類の原始的な状態である「サル」に遡っているのかなと思います。

そして、「僕」は、そのことを、「君」も「僕」に対してしているだろうと想っているのだと思います。だからこそ、「僕らは」という表現なのかなと考えます。

 

 

 

リルケの詩と絡めた解釈は、いかがでしょうか。

私自身も、この部分の意味について、最初は全くわからなかったのですが、たまたま読んだこの詩のおかげで、もしかしたらこういうことかな?と少し分かるようになりました。

この部分は、人類の壮大さを感じさせる素敵な部分だなと思います。

 

 

 

(実のところ、このように、ある詩の解釈をそれとは全く関係のない曲の解釈に勝手に絡めてしまってもいいのか?という葛藤がありました・・・が、やってしまいました。引用の仕方とか、詩の扱い方とか、全然わからないままとりあえず書いてしまいました。すみません・・・。

偶然、ドイツ語文学を専攻されている方に本記事をご覧いただくことがあるとしたら・・・なんて想像すると、胃が痛くなりそうです・・・が、ええい、書きたいので書いてしまおう、、とりあえず、色々とすみません・・・!)

 

 

 

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スピッツ『ナイフ』について、私なりの解釈をご紹介いたしました。

近視眼的な欲望にとらわれているだけなのかと思いきや、人類の歴史に思いを馳せるような壮大な歌詞とが相まって、聴けば聴くほど味わい深く感じられる曲だと思います。

 

 

この曲のライブ映像が、『Live Chronicle 1991-2000ジャンボリー・デラックス』に収録されていますので、そちらも是非ご覧ください!(足を組んでうつむきながら、うつろな目をして歌うマサムネさんが、超絶色っぽくて最高です!)