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【ひねくれ考察・解釈】スピッツ『Sandie』

『sandie』は、アルバム「ひみつスタジオ」に収録されています。

Sandie

Sandie

  • provided courtesy of iTunes

 

 

 

この曲は、ポップで可愛らしい曲調でありながら、人間の精神面の回復ということに関してかなり肉薄した描写がなされているというように感じています。私としては、この曲は、「君と出会えたことで新たな世界を知り、そのおかげで、諦めざるを得なかった世界を晴れやかに卒業することができた」ということ、及び、その過程について表現している曲であると考えています。

個人的には、曲の中に度々現れるホーンが、前向きさ、晴れやかさ、そして、祝福感をも表現してくれているような気がしています。

 

 

このアルバム全体のテーマとなっている「修理」「再生」「復活」に沿ったものとなっていますね。

 

 

以下、『Sandie』について、私なりの解釈・考察をご紹介したいと思います・・・が、解釈がどうも皮肉な方向性へと行ってしまいました。もしかしたら、私が想像して、重ね合わせたものがよくなかったのかもしれません・・・(主観が過ぎたのかもしれません)。

 

したがって、世の中の皆様、そして、マサムネさんの考えていたものとは、かなり違った、ひねくれた、皮肉な解釈になっている可能性があります。このことをご承知おきくださいますようお願い申し上げます。

 

 

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歌詞を冒頭から見てみたいと思います。

 

初めて君に 出会った時から

僕の心は桃のようなカタチのまんまだよ

曲の冒頭にこのフレーズがくるのは天才的だなと思います。まず、この曲の主人公たる「僕」にとって、「君」との出会いがプラスのものであったということが伝わってきます。

 

そして、「桃のようなカタチ」という言葉から、丸みを帯びた、やわらかい雰囲気を想像しますが、「僕」は「君」に出会えたことで、そのようなとげとげしていない、丸くて、豊かで、優しい気持ちになった、ということを表現しているように思います。

 

 

 

しがみついてた 枝を離れて

抜け道はすぐそばにあるって教えてくれたっけ

このフレーズからは、「僕」は、辛い思いをしながらも耐えて、自分が追い求めていたもの(仕事とか、夢とかですかね…?)に食らいついてはいたものの、「君」が、そんなに辛い思いをしなくても、こんな道もあるよ、と教えてくれた、ということを表現しているように思います。

 

 

この「枝」という言葉が秀逸ですよね。というのも、「枝」というと、手で折ることすらできてしまうような、細くて弱い印象があるからです(もちろん、太くて強い木の枝もありますけどね!)。

 

そこまで細くて弱い枝でなかったとしても、一般に、人間が「枝」に「しがみつく」というのには、無理があります。このことから、ここでは、「僕」の追い求めているものは手に入らない、無理だとわかっているのにも関わらず、ただただ「しがみついている」というイメージを彷彿させます。

 

 

 

違う世界があったから救われた

欲望とか悔しささえ 手に入れたし

サビの歌詞です。

「僕」は、世界が「僕」が今しがみついている世界だけで構成されているわけではないということに気づけなかったからこそ、上記のように「枝にしがみついていた」わけです。しかし、「僕」は、(おそらく)自分とは違う世界に住んでいる「君」に出会えたことで、自分が今いる世界だけではない、ということを知ったのでしょう。このことに対する喜びや開放感、安堵感がこの1フレーズにギュッと詰まっていると思います。

 

 

「僕」が「欲望」や「悔しさ」を手に入れたのも、「違う世界」でのことだと思います。この部分について、私の超主観的な憶測ではありますが、「僕」がしがみついていたちいさな世界では、自分の感情を押し殺して生きるのが「普通」であったのではないかと思います。例えば、「◯◯したいな〜」などと言うと、「そういう欲望的な感情を抱くなんていやらしい」と批判されてしまうような感じです。すなわち、極端に言えば、非人間的な生き方が求められるような世界だったのではないかということです。そこから飛び出して、「僕」は、人間らしい、感情豊かな世界に飛び込んだことで、ある種汚らしくも、人間特有の感情である「欲望」や「悔しさ」といった感情を手に入れることができたのではないかと思います。

 

 

 

虎の威を借るトイソルジャーたちに

さよならして古ぼけた壁 どう壊そうかな

私がこの曲の中で一番好きなフレーズです。

ここについて、個人的に想像したのは(めちゃくちゃ悪口っぽくなってしまいますが)、「僕」がしがみついていた世界では、大したことのない人間が偉い人に媚びへつらいながら威張っているのが日常だったのでしょう。そして、その構造をよく思っていなかった「僕」は、今となっては「古ぼけ」て感じられる「壁」(=気位の高い、トイソルジャーたちの世界と、一般の世界を隔てている壁?)を壊してやろうという気になっているのであろうということです。

 

 

「トイソルジャー」という言葉のがたまらないですね…おもちゃの兵士、ということになろうかと思いますが、結局のところ、大したことないくせにちっぽけな武器を身に着けて虚勢を張っている人を皮肉った表現なのではないかと思いました。

もっとも、マサムネさんがそんな意地の悪い発想をなさるとは思えないのですがね…ということは、私の発想があまりにもひねくれているのでしょう(苦笑)

 

 

 

洒落てる仮面も 投げ捨てたけれど

ぎこちない顔陽に晒して歌ってられるんです

これまた私の勝手な想像ですが、「トイソルジャー」たちの世界にいると、自分は他の人と違う存在、あるいは、本来の自分とはまるで別人の、高貴な存在なのではないかと思えてくるのではないかと思いました。しかしながら、実際にそのようなことがあるはずがなく、そのような「実感」は、思い込みでしかないのです。そういった意味(偽りのものであり、すぐに剥がせるもの)を込めて、「洒落てる仮面」と表現したのかなと思いました。

 

 

やはり、これまでは「僕」も「仮面」を身につけることによって、「トイソルジャー」たちのように虚構の自分を身にまとっていたからこそ、本当の自分(現存在たる自分)に対する理解も深まっていなければ、本当の自分を外部に対して上手に表現することも難しいのでしょう。このような意味で、「ぎこちない顔」というフレーズを解釈しました。

 

 

それでも「僕」は、「陽にさらして笑ってられる」ということなので、「仮面」を外して、本当の自分を出すことの素晴らしさを実感しているのだなと思いました。

さらに考えてみると、「トイソルジャー」たちは、一生本当の自分を「陽にさら」すことのないまま人生を過ごすことになろうかと思いますが、「僕」は、そのことをも皮肉っているような気がしました。考えすぎですかね!?

 

 

 

違う世界を知ったから今日までも

明日からの自由な荒野も 楽しめそうさ

「今日までも・・・楽しめそうさ」というのは、かつて憧れて、しがみついていた世界を、未練なく、前向きに諦める(≒卒業する)ことができた、という意味かと思います。

 

 

そして、「明日からの自由な荒野」というのは、これまで描いてきた未来予想図とは大きく異なるからこそ不安も伴うような、未知の未来を表現しているように思います。

 

「荒野」という以上、けもの道の如く、道もなく、先達もおらず、強い逆風も吹いてくるような過酷な状況を想定しているような気がします。この過酷さは、客観的な様子を表しているのか(たとえば、もとにいた「世界」から抜け出したことで、「僕」にとって新たな世界たる「違う世界」では生きづらくなる、ということがあるのでしょうか)、それとも、先行きが見えないという主人公の不安な気持ち、すなわち、主観的な感情に由来するものなのかということまでは、想像がつきません笑。

 

 

 

しなやかでオリジナルなエナジー

凍れる向かい風を受けて 駆け抜けてく

「枝」にしがみついていた頃は、ガチガチのルールや上下関係などに縛られて、また、上の人間の言いなりになりながら生きていたけれども、これからは、どんな逆風(「凍れる向かい風」)を受けるとしても、自分らしく、折れることなく「しなやかに」かわしながら生きていこう、という「僕」の決意を想像しました。

 

ちなみに、ここでの「しなやか」というのは、先程の「しがみついてた枝」と対照的なものとして描かれているのでしょうか?

 

また、「凍れる」と書いて、「しばれる」と読みます。ご存じの方も多いかと思いますが、この言葉は、北海道地方の方言です。ニュアンスとしては、「痛いくらい寒い」という感じだそうです。

ということは、周りの人たちは冷たいな〜…と思うくらいの「向かい風」というよりかは、むしろ、周りの人たちが冷たすぎて、メンタルやられそう!と思って心を痛めるくらいの「向かい風」なのだろうなと思いました。

 

 

 

違う世界があったから救われた

叶いっこない夢をもう一度 描きちらして

しなやかでオリジナルなエナジー

新宿によく似てる魔境 駆け抜けてく

駆け抜けてく

この曲の最後の部分です。

最後の最後の、ダメ押しのような「違う世界があったから救われた」が、個人的には、グッときます。

このフレーズに続いて、「叶いっこない夢をもう一度・・・」と来るのですが、これがまた最高なんです。というのは、「僕」がもといた世界で追いかけていた夢を、一度諦めることになっても、また別の世界でもう一度追いかけていけるという可能性が広がっていると思えるからです。「叶いっこない」という言葉からは、やはりその世界を出てしまった以上、必ず叶うというわけではないという諦めの感すら感じますが、それでも「もう一度」という言葉が救いであるように感じます。「違う世界」でも、これまでとはまた違った角度から、かつての夢を追いかけることができる・・・そんな希望を主人公が抱いているように思いました。

 

 

私が個人的に一番面白いと思ったのが、「新宿によく似た魔境」というフレーズです。マサムネさんが「新宿」=「魔境」と捉えていらっしゃるんだ・・・!と驚きました(確かに新宿には、色んな地域があって、色んな人がいて、ある意味"気をつけて歩く必要がある街"であるとは思いますが、魔境であるとまでは思ったことがありませんでした・・・笑。「新宿」を「魔境」のたとえに持ち出された理由を是非とも知りたいところです)。「新宿」のような「魔境」で、色んな誘惑や魔の手(!?)に引き込まれることなく、自分の道を駆け抜けていこう、という意味なのでしょうかね。

 

 

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以上、かなりひねくれた個人的な『Sandie』の考察・解釈をご紹介しました。

この曲は、私が『ひみつスタジオ』を手にして、一番最初に好きになった曲です。実は、この曲には、私自身の体験や見た世界を重ね合わせて聴いてしまっています。この曲の主人公たる「僕」が、まるで自分のように思えてきます。

 

 

以下、余談(私の個人的な体験談)です。

私も、ここ数年間は、既得権益の牙城のような(?!)閉鎖的でやたらと気位の高い某業界にしがみついていました。なぜなら、私には、その業界を通じて果たしたい使命感と目標があったからです。

私は、何のツテもない状態でその業界の門を叩いたものですから、本当に上の人間からチラリと提示された「枝」にしがみつくような気持ちで頑張ってきました。

 

 

閉鎖的な師弟関係のなかで、見えにくい(隠される)ハラスメントに耐える日々でした。これは、業界では当たり前で、むしろ、これは教育的指導であるから感謝すべきだとすら言われる状態でした。

 

そんな中で生きる日常に嫌気がさしていました。

そして、その業界で生き残ろうとすることを諦めたのです。

 

それで、今年の春だったのですが、所属団体の謎ルールに背いて、業界を飛び出しました。そして、世の中には、様々なコミュニティがある、ということを知りました。

 

もっとも、所属団体を完全に離れたわけではないので、団体の人間から、このことをさんざん糾弾され、事態はさらに悪化してしまいましたが・・・(この記事を執筆している今もそうです)。

 

その頃に出会った曲が、この『Sandie』でした。

 

「違う世界があったから救われた」

この歌詞が、当時の私の環境の変化と、それに伴って変化した心境をそのまま描いているような気がしていました。違うコミュニティがあることを知ったからこそ、本当に救われたような気がしました。未知のコミュニティでの経験が、理不尽な古巣に抵抗する勇気になっていました。

 

 

世の中、「世界」は、一つだけではありません。今所属している「世界」が、世界ではありません。世の中には、人の数だけ「世界」があると思います。だから、もしも、今所属している「世界」が自分にとってふさわしい「世界」ではないと感じたのであれば、そこに見切りをつけて、新しい「世界」を見つけに飛び出してみるのも良いと思いました。そして、新たな「世界」で、過去につらい思いをしてきた自分を救ってやるのもいいと思います。

もちろん、いったん自分の目指すことを諦めることになるので、それにより"痛み"が伴うとは思います。しかし、その"痛み"以上に得られるものがあると思いますし、また新たな環境で、希望を持ち、自分らしく生きながら、自分の夢や目標を叶えるということもできると思います。

 

 

『Sandie』は、古巣を飛び出て、新たな世界を見いだそうとする人の背中を押してくれる曲であると思います。

そういうわけで、皆さん、「しなやかでオリジナルなエナジーで」頑張りましょう!!!!